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徳川信康(松平信康、岡崎三郎信康)  【静岡市清水区 江浄寺】

徳川信康は、家康の嫡子(長男)として、家康がまだ松平元康と名乗っていた今川氏の人質時代(幼少名:竹千代)の永禄2年(1559年)に駿府(現静岡市)で生まれました。本来は、家康亡き後、徳川幕府・二代目将軍を継承する資格ある人物です。
母は元康の正室で、今川義元の姪である築山殿です。もともと、徳川という姓は、将軍家と御三家のみしか名乗ることが許されなかったので、正確には松平信康と称されます。
さらに9歳にして、岡崎城々主となったので、岡崎三郎信康と呼ばれました。
しかし、永禄3年(1560年)の今川・徳川先鋒軍VS織田軍の「桶狭間の戦い」において、今川義元が討ち死にすると、家康は13年間の人質生活にピリオドをうち、駿府から領地の三河に戻りました。その後、家康は織田信長と清洲同盟を結んだため、信康は一転して今川氏側の捕虜となりましたが、その後の捕虜交換により岡崎城に帰りました。
永禄10年(1567年)、家康は磐田城の築城に失敗したため、信長から改易を指示されると、信康に信長の娘・徳姫を迎える政略結婚により、織田家と姻戚関係を築きました。その際、信康の「信」は信長から、「康」は家康から一字を授かったものでした。
その後、信康と築山殿が武田勝頼と内通しているという嫌疑がかけられ、また信康の武勇とその有能な資質をおそれた信長の命により、天正7年幽閉されていた遠州・二俣城(現浜松市・天竜区)で21才という若さで切腹したと伝えられています。
この時、家臣・平岩親吉が持っていた遺髪を現在の静岡市・駿河区にあった久能城の城主である榊原清政が譲り受けて、当初勝沢山・江浄寺に祀られましたが、江戸時代に江尻宿の開宿とともに、現在の江浄寺(静岡市清水区江尻東3-6)に墓所をつくり祀ったものです。

江浄寺は、三代将軍徳川家光によって三ツ葉葵の紋の使用を許されたことから、本堂のガラスなどいたるところに三ツ葉葵の紋が書かれています。

宗派 浄土宗
住所 〒424-0815 静岡市清水区江尻東3-6-6
電話番号 054-366-5563
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松浦源太郎成清の恋塚  【静岡市清水区 江浄寺】

今を去る四百年の昔、徳川幕府初期の寛永元年(1624年)5月24日 九州平戸松浦藩藩主、松浦肥前守隆信の弟松浦源太郎成清(しげきよ)は、この江浄寺の一室で切腹し悲運の最後を遂げました。
成清と婚約を交わした春姫は、参勤交代の為江戸にいた成清を平戸で待っていました。ところが、兄隆信が春姫を側室にすると聞いた成清は禁を犯して江戸を出奔し、江尻宿でようやく兄の行列に追いつきました。しかし、無断で江戸を抜け出した公儀への罪は重くけじめを付けなければ松浦家六万石は取り潰されます。当時、江戸には有力諸大名の謀反の噂が広がり、改易取り潰しが相次いでいました。家老達の藩を守ることを第一とする無情な決定により成清は25歳の若さで切腹させられることになりました。
成清は名門松浦家の安泰の為に自ら命を捨てましたが、死後は「我が墓はこの寺に建てよ、それに願をかける者があれば、その想いをとげさせてやろう」と遺言しました。
果てた後は、この世で結ばれぬ人々の為に浄土で縁結びの霊魂となることを誓ったのでした。以来、成清公のお墓は縁結びの恋塚と呼ばれてきましたが、長年月の間に所在が不明となってしまいました。時は流れこのたび平成17年、有志の方々によって縁結びの恋塚が復元建立され、悲恋の物語が史実として皆様にご紹介されることになりました。成清公の御霊の成仏を心からお祈り申し上げます。合掌

『果ててなお 想い伝えんいつの世も さつき眼に染む 永遠の御寺に』 三十五世 浄誉

愛する婚約者のため、そして御家のために、自らの命を犠牲にされた成清公に敬服します。

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フォトアルバム

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歩道にある江浄寺の案内版です 江浄寺の正門 正門の右側にあります 正門から見た本堂 本堂 本堂 本堂の入り口、龍の飾り、葵の御紋 江浄寺の案内図 徳川信康公の説明板 徳川信康公の説明板 徳川信康公のご宝塔 徳川信康公のご宝塔 徳川信康公のご宝塔 徳川信康公のご宝塔の説明板 徳川信康公のご宝塔 恋塚の説明板 恋塚 恋塚 恋塚 境内 境内 境内 境内 境内

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