小夜の中山 他(今川時代を振り返る その4)

今川氏の初期の頃を紹介するには、この時代の背景をある程度知っていただく必要があると思います。

時代でいえば、鎌倉時代末期、南北朝時代、室町時代初期ということになりますが、

ひとことでいえば、争いに次ぐ争いの時代であったといえます。

しかも昨日の敵は今日の友のように、激しく敵味方が入れ替わり、ありとあらゆる争いがありました。、

その中で主な争いを表にまとめてみました。

事件名 年代西暦 年代和暦 幕府・体制側 相手方 今川家
元弘の乱前半 1331-32 元弘元-2 鎌倉幕府 足利高氏(尊氏) 新田義貞 後醍醐天皇 楠正成
元弘の乱後半 1332-33 元弘2-3 鎌倉幕府 後醍醐天皇 足利高氏 楠正成 新田義貞
鎌倉幕府滅亡 1333 元弘3
建武の新政 1333-36 元弘3-建武3
中先代の乱 1335 建武2 足利高氏 足利直義(高氏弟) 北条時行 諏訪頼重 今川3兄弟の戦死
湊川の戦い 1336 建武3 後醍醐天皇 楠正成 新田義貞 足利高氏 足利直義(高氏弟) 高師直
室町幕府開設 1336 建武3
観応の擾乱 1350-52 観応元-3 足利尊氏 足利義詮(尊氏実子) 高師直 足利直義 足利直冬(尊氏実子 直義養子)


表題の小夜の中山は「さよのなかやま」と読みます。

国道一号線を島田方面から菊川方面に進み、

トンネルを抜けると小夜の中山の表示があります。

地元では、強盗に殺された妊婦の魂が石に乗り移り、

その石から子供が生まれ、やがてその子が親のかたきを

とるという「夜泣き石」伝説で有名なところです。

左の写真は上記の表にある

「中先代の乱」に関連する鎧塚です。

中先代の乱は、鎌倉幕府第14代執権北条高時の遺児

北条時行が先代(北条氏)と後代(足利氏)の間に一時的に

鎌倉を支配した反乱です。
鎧塚(よろいづか)

建武二年(1355年)北条時行の一族名越太郎邦時が、

世に言う「中先代の乱」のおり京へ上がろうとして、

この地に於いて足利一族の今川頼国と戦い、

壮絶な討ち死にをした。

頼国は、名越邦時の武勇をたたえここに

塚をつくり葬ったといわれる
このあたりは、ハイキングコースとして紹介したい

場所です。

尾根づたいに道がつづき、民家と民家の間に

上記の鎧塚の他に、

西行法師、徳川家康などにちなんだ旧跡があり、

古くから様々な舞台になってきました。

この写真を撮ったのは茶摘みのシーズンで、

週末だったので、一家総出で茶摘みをするシーンが

見られました。


足利高氏(尊氏)を中心としてみれば、当初鎌倉幕府の御家人として、後醍醐天皇の倒幕勢力に対立していたものの、

寝返って、鎌倉幕府を滅亡させる側になります。さらに今度は後醍醐天皇側と対立し、建武の新政を崩壊させ、

自ら室町幕府を開設します。ところが今度は実の弟、息子と対立して(観応の擾乱)、

さらには、極めつけは、京都から追放されて当時南朝にいた後醍醐天皇にいったんは降伏までします。

といった具合に主従の裏切りに始まり、果ては親子氏族内での醜い権力争いととなります。

ところで我が今川氏ですが、中先代の乱あたりから歴史の舞台に登場し、上記の争いの中では

ことごとく、足利方のしかも尊氏側に立って戦います。特に足利尊氏が弟の直義、実子の直冬と戦った

観応の擾乱ではどちらにつくか、かなり迷いがあったようですが、(ちなみに本家筋の吉良氏は直義側につきます)

尊氏側についています。歴史の流れとしてはより主流側についたことになりますが、それは後からわかった話です。

室町幕府成立時から一貫して足利将軍側について戦ったことにより、今川氏はかなり幕府の信頼を得ていたものと思われます。

こちらは静岡市駿河区長田(おさだ)の

「手越(てごし)河原古戦場跡」です。

ここは中先代の乱が収まった後、

新田義貞(後醍醐天皇側)と足利尊氏との戦いの

主要な戦場となりました。
由緒

昔の長田(おさだ)は安倍川と藁科川が自由に流れていた

広い河原であった 鎌倉時代の末この河原で

度々戦が展開された。

中でも建武二年(1335年)十二月五日、

新田義貞と足利直義の両軍あわせて十万余の軍勢が

正午から午後八時頃まで十七回も激戦が繰り返され

此の戦いから 六百五十年に当たるのを機会に

戦いに斃れた多数の

この碑を建てる

昭和六十年十二月五日

三河で初めて今川を名乗った今川国氏、その子の基氏(もとうじ)についてはほとんど記録がありません。

基氏の子5人のうち、長男頼国(よりくに) 次男範満(のりみつ) 三男頼周(よりちか)の3人は中先代の乱で戦死しますが、

一族から3人も戦死者をだしたことで、今川家の家名がいっきにあがることになります。

兄たちが亡くなったため、五男範国(のりくに)が今川家の家督をつぎます。

そして、通常この範国が今川家初代と数えられます。

ちなみに四男法忻(ほうきん)は出家して鎌倉において臨済宗の名僧となります。

範国は中先代の乱の後、遠江(今の静岡県西部地方)、続いて駿河(今の静岡県中部地方)の守護となります。

次回は範国の墓所などを紹介させていただく予定です。

小夜の中山

行き方:静岡方面からは国道1号線のバイパスを島田方面からトンネルを抜けてしばらくすると案内の表示があります。

また東名高速道路の掛川ICから30分ほどです。

なお、夜泣き石は国道1号線沿い(島田市から大井川を越えて上記のトンネルの手前)と上記で紹介した鎧塚近くの久遠寺の2ヶ所にあります。

手越河原古戦場碑

行き方:JR安倍川駅東口から徒歩で南に数分いった「みずほ公園」の中にあります。




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