華蔵寺(今川時代を振り返る その3)

前回今川氏発祥の地を紹介させていただきましたが、いつごろのことかという内容が抜けていました。

今川氏の祖となった吉良長氏の生まれが1210年、その息子の今川国氏の生まれが1243年とされていますので、

鎌倉時代の初期から中期にあたる時代のこととなります。


この記念碑を訪れた後、お隣の幡豆郡(はずぐん)吉良町に向かいました。

なぜ、吉良町にいったのかといえば、ついでにというのが正直なところですが、

今川氏の本家筋にあたる吉良家の墓所をもう一度見ておこうという気持ちもありました。

吉良氏の菩提寺である華蔵寺(けぞうじ)は吉良町の町から

離れたやまあいにあります。

寺の駐車場には左のような観光地図がありましたが、

「名門吉良氏 盛衰のロマンを辿る」とあります。

このあたりは後で紹介する城跡もあり、ちょっとした歴史のロマンを感じさせる

地域となっています。

薬医門やくいもん)といわれる山門が建っています。

写真ではちょっとわかりにくいですが、表札には「吉良家菩提寺」

と堂々と書かれています。

寺自体はさほど大きくはありませんが、何というか、

凜(りん)としているのです。

吉良家の墓所を守る誇りが感じられます。

ちなみに山号の「片岡山」は「jへんこうざん」と読むそうです。

今川氏の菩提寺とされる静岡市の臨済寺には

残念ながらこのような表札はかけられていません。
片岡山 華蔵寺

慶長五年(一六〇〇)吉良義定公、妙心寺の高僧月舟禅師を請じて、

吉良家菩提寺として華蔵寺を開基する。

当寺は、吉良家十三代から十八代までの墓を護る。
 
吉良氏は源家嫡流足利氏の名門で、鎌倉初期に足利義氏が三河守護になり

吉良荘(現在の西尾市幡豆郡一帯)に住み、吉良を称した。

室町時代には有力大名の一として、常に室町幕府を支えた。江戸時代には

旗本高家に列し、その筆頭として栄えたが、不幸な元禄事件により

断絶した。

(以下略)

吉良町教育委員会
以前訪れた時(10年以上前)は、

確かこのような塔はなかったと思っていたところ、

側面に「吉良上野介義央公300回忌記念」とありますので、

2001年ころ建てられたようです。

それにしても「高家(こうけ)」という文字が

何とも誇らしげではないでしょうか。

高家とは、江戸時代の役職であり、家柄を表すものです。

特に吉良家はその中でも筆頭格といわれていました。

今川家も高家の一つとして数えられましたが、

そのことについてはまたあとでふれたいと思います。
この華蔵寺には吉良家の13代から18代のお墓がありますが、

上野介義央公の5代前、つまり13代の吉良義安は、

「駿河国藪田村(現在の静岡県藤枝市藪田)にて没」と書かれています。

これは当時(今川義元公のころ)今川家に人質として連れて行かれ、

その地で亡くなったようです。

(他の資料では三河に戻ったとの見方もある)
吉良上野介義央公のお墓です。

なんといっても吉良家の中で一番有名な方のお墓ですが、

先祖の方々や夭逝した実の子の方が墓石が大きくなっています。

これは義央公が亡くなった時点では家運が衰退したしたため

とされています。
義央公の孫であり、養子になった義周(よしちか)公の墓石の

隣にあった系図です。

このような説明文が各墓の横に建てられています。

ここにもさりげなく「名門」吉良家と書かれています。

華蔵寺の隣には、東条吉良氏の菩提寺である花岳寺(かがくじ)が

建てられています。

吉良氏はその出発の時点で矢作(やはぎ)川を境に、東の東条吉良、

西の西条吉良の二家に分かれました。

このお寺は義央公の先祖にあたる東条吉良氏の菩提寺です。

祥雲山 花岳寺 由緒

「往古、金星山と称する真言宗寺院の僧坊の一つであった。

貞和三年(1347)西尾実相寺より、佛海禅師が入寺開山され、

臨済宗に転ず。東條吉良氏祖、尊義公山内に塔頭霊源寺と開基せらる。

大永五年(1525)東條八代吉良持広公講堂を再興、

永禄七年(1564)家康公吉良氏との浅からぬ因縁により

寺領三十六石を寄進せらる。

以下略

吉良町教育委員会
東条吉良氏の居城であった城跡を遠方から写したものです。
再建された物見櫓(ものみやぐら)です。

4月の中旬ですが、鯉のぼりが元気におよいでいて、

桜もちょうど見頃でした。

中世の城跡としても貴重なもので、

また公園としても眺めが良くて、とても良い場所です。
この東条城跡には句碑があるのですが、

ふんふんと何気なく見ていたところ、、

なんとこれはこのシリーズの第1回で紹介した連歌師宗長の

句碑でした。おもいがけずに知った人に出逢ったようでうれしくなりました。

肝心の句碑のほうは写真をとったつもりがデータに残っていませんでした。

左の写真は句碑の横にあった説明文で宗長がこの地で連歌の会を

開いたと書かれています。
華蔵寺の駐車場で見かけた義央公の像です。

このような赤馬に乗って領内を視察したと伝えられています。

ちなみに今川義元公の銅像はどこにも建てられていないと

思いますが。
地元のお菓子の看板です。

「吉良の殿様よいお方 赤いお馬の見回りも 浪士に討たれてそれからは

仕様がないでは ないかいな」

と書かれています。

それにしてもいたるところ、吉良様、きらさまです。

大正7年(1918年)にこの地を訪れた俳人村上鬼城(きじょう)の句

「行春や 憎まれながら 三百年」

「お気の毒な吉良様 三百年もの間 世間では憎まれなされた あんなに

名君でありながら」という言葉も紹介されています。

かなり多くのスペースを使って吉良氏の紹介をしてきましたが、

これは一つ目には世間一般では評判の悪い吉良氏が地元では大変尊敬され、誇りに思われていることを

ぜひ知っていただきたかったということがあります。

写真にはありませんが、この日最後に訪れた吉良町歴史民族資料館の展示品は、その半数ほどが

吉良氏関連の内容です。

吉良町という名前自体、昭和30年に周辺の町村が合併した町ですが、「吉良」という名前を選択したことで、

この周辺の方々の「吉良」への思い入れが感じられます。

静岡でこのように今川氏が扱われる日がはたして来るのかというと、現状では大変疑問に思います。

二つ目は、今後また紹介させていただくこともあると思いますが、吉良氏と今川氏の切っても切れない深い関係が

室町時代から戦国時代にかけて繰り広げられてきたことによります。吉良氏の歴史の中に今川氏が

頻繁にでてきますし、またその逆もあります。


華蔵寺及び花岳寺(2つの寺は隣あっています)


住所:愛知県吉良町岡山字山王山59 (華蔵寺住所)

行き方:名古屋鉄道上横須賀駅から車で5分ほど
 車なら東名高速道路音羽蒲郡ICから40分ほど

東条城跡はこの2つの寺から車で東へ数分のところです。


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