吐月峰柴屋寺(今川時代を振り返る その1)

静岡で生まれ育った方が案外わかっているようでわかっていないことが、

戦国大名今川義元や今川氏が地元でありながらなぜ人気が無いのか、今川氏にあまり関心も寄せないのかということです。

静岡・駿府といえば、まず第一に思い浮かべるのは徳川家康であり、

居城で大御所政治を行った駿府城の城址や家康の墓がある久能山東照宮が名所としてあげられます。

いずれも徳川家にまつわる場所ですが、それでは今川氏といえば、知っている人は知っていても

誰もがわかるような名所は少ないのではないでしょうか。

戦国時代を題材にしたドラマで今川義元といえば公家かぶれで太っていて馬にものれず

惨めに敗戦した武将として描かれることが多かったと思います。

最近のNHKの大河ドラマ「風林火山」では義元役をイケメン(二枚目)の谷原章介が演じていて、

期待を持たせましたが、イケメンは良かったのですが、度量が狭く、ちょっと嫌味な人物のように描かれていたように思います。

今川氏は室町時代から戦国時代にかけて、守護大名及び戦国大名としてこの地方(駿河・遠江)を治めてきました。

多くの地方で守護大名がその家来筋に乗っ取られたり、他から侵略されて新しい主人を迎えた中で、

この地方は一貫して今川氏が治めてきたのです。

まして室町時代には「御所(足利将軍家)が絶えなば吉良が継ぎ、吉良が絶えなば今川が継ぐ」

といわれたように、足利氏一門の吉良氏(忠臣蔵で有名な吉良上野介の一族)の分家として出発した

今川氏は名門中の名門でした。またその勢力も本家筋の吉良氏の三河も併合し、

当時の世間の目線でみれば、天下に一番近い大名家だったと思われます。

しかしながら、今川氏9代目の今川義元は文武両道の郷土の英雄であるはずが、桶狭間の戦いで敗れたことにより、

義元のみならず、今川氏の名声は地に墜ちて、地元静岡でも人気がないというか、恥さらしと思っている人もいると思います。

もちろん、かといって、桶狭間で敗れていなかったなら、織田信長のように天下統一の道を進んだかというと

大いに疑問なのですが、一度の敗戦でその名声が地に墜ちて、後世の地元民までその功績を

忘れてしまうというのはあんまりではないかと思います。

今川義元の頃の今川氏は駿河、遠江の他三河地方も治め、その中心地であった駿府はおおいに栄えていたわけであり、

このような200年以上にもわたってこの地方を治めてきた影響が現代に残っていないはずがありません。

それで静岡市周辺の今川氏にまつわる名所・旧跡を紹介しながら、今川時代を振り返ってみようという

連載企画を行うことにしました。

今川氏の研究で有名な静岡大学の小和田哲男教授によれば、駿府城跡の発掘で、今川氏の拠点といわれる

今川館らしい建物跡がみつかったとのことで、今後その発掘が進めば今川氏についてももっとわかってくると思います。

それにしても今川氏の館の跡に駿府城を建てたことが本当だとしたら、

徳川家は意図的に駿府の地から今川色を一掃しようとし、そればかりか、その功績を忘れさせようとしたのではと

思うのですが、その意図が残念ながら現代にまで受け継がれてきてしまっていると思うのですが、どうでしょうか?

前置きが長くなりましたが、第1回目として室町文化の様子を今に伝える

吐月峰柴屋寺(とげっぽうさいおくじ)を紹介させていただきます。

現在の静岡市駿河区丸子泉ヶ谷にある

天柱山吐月峰柴屋寺(てんちゅうざんとげっぽうさいおくじ)は、

今川氏6代当主義忠、7代当主氏親に仕えた連歌師(れんがし)

の宗長(そうちょう)が室町時代中期の永正元年(1504年)

55歳で草庵を結び、余生をおくったところです。

連歌は日本の伝統的詩形で、室町時代に大流行しました。

宗長は現在の静岡県島田市の出身で

当初今川氏6代義忠に仕えましたが、義忠の死後、

京都に上り当時の連歌の第一人者である宗祇の

弟子となりました。
吐月峰という名前は竹の間から月が「吐き出されるように」

昇るようにみえたことからつけられたといわれています。

宗長は師匠の宗祇とともに全国を旅したそうですが、

有名な「急がば回れ」の語源はこの宗長の

「もののふの矢橋の舟は速けれど急がば回れ瀬田の長橋」

だそうです。急いでいる時は琵琶湖を舟で行くより瀬田の

橋を回ったほうがいいという意味からきてます。

この有名なことわざの由来がこんなところにあったとは、

宗長という人は当代随一の文化人だったのでしょう。
この説明文によれば、寺の宝の一つとして、

「文福茶釜」があげられます。タヌキが茶釜に化けたという

伝説で有名ですが、この寺の茶釜は将軍足利義政より

賜った物で、こちらが本物だそうですが、どうでしょうか。

一般的には「分福」と書かれ、字も違うのですが、

真相はわかりません。
英語の説明文です。

庭園は国指定の名勝と史跡に指定されているため、

海外からのお客様にも配慮しておられるようです。

寺の説明の他、地元丸子(まりこ)のとろろ汁の

説明もかかれています。

この池の右奥には苔むした岩がおかれ、

枯山水(かれさんすい)という様式により、

この池に水がそそぎこむことを表現しているとのことです。

池の両側には梅の木が植えられていて、この写真をとった

4月には何の花もなかったので、花が咲く

2月頃にまた訪れてみようと思います。

この池の奥にはサルスベリが植えられており、

夏にも花が咲くように考えられていますが、

この庭園では4月は花が少ない時期のようです。

なお、この池は北斗七星をかたどっているそうです。

発想のスケールがかなり大きいようです。
花が少ない中で唯一きれいに咲いていたのが、

左の写真のミヤマツツジです。残念ながら、鮮やかな

ピンクが全く表現されていません。

写真の真ん中に月見岩という岩があり、

ここに座って、写真手前の方向をみて、

竹林の中に月が昇る様子を眺めたようです。
写真中央が上の写真で説明した竹林です。

ここの竹は京都の嵯峨野の竹をもってきて

植えたものだそうです。

室町時代の駿府(静岡)は、応仁の乱などで京の都が

戦乱となったため、今川氏を頼って多くの高級貴族が

移ってきて「東国の京」といわれたそうです。

やがて京にもどる貴族もいた中で、こちらに定住した

貴族もいたようです。

残念ながら、これも写真が今一つですが、写真中央はるか向こうに、

丸子富士と呼ばれる山がかすかに見えます。

この庭園は周りの風景を庭の一部とする借景といわれ、

この南方の丸子富士の他、西方の天柱山(てんちゅうざん)までも

庭の一つと考えています。
宗長の木像です。宗長は師匠の宗祇が亡くなった後は

連歌界の第一人者となっただけでなく、多くの武将や公家とも

交流があり、今川氏の外交官や軍事顧問の役割も

はたしていたようです。

晩年は今川氏7代の氏親の正室寿桂尼や高僧の雪斎が

主に今川氏の舵取りをしていたため、出番がなくなってきたようで

享禄5年(1532)3月16日85歳で亡くなりました。

竹藪の中に師匠の宗祇と並んで宗長の墓があるとのことでしたが、

今回は確認できませんでした。


当代随一の文化人が地元出身で地元で活躍したとは

嬉しい話ではないでしょうか。
この丸子泉ヶ谷というエリアはこの吐月峰柴屋寺の他、

伝統工芸を体験できる駿府匠宿などの施設、とろろ汁を食べる

ことができる店などちょっとした文化エリアとなっています。

ぜひ一度訪れてみてください。
帰りがけに丸子城の案内図を見つけました。

それによると全国屈指の山城とあります。「全国屈指」といわれると

見てみたくなりますが、ここも今川氏に関連した

旧跡です。いずれ紹介させていただきたいと思います。


臨済宗妙心寺派 天柱山吐月峰柴屋寺

住所:〒421−0103

静岡市駿河区丸子3316番地

電話:054−259−3686

拝観料:大人300円 小人200円

行き方:JR静岡駅から藤枝駅行きバスで20数分吐月峰入口バス停で降りて徒歩10分

静岡市の市街地から車で20分ほどです。

先に紹介させていただいた誓願寺の手前になります。

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